2007年10月18日 (木)

気象神社物語(13)

                       陸軍気象部とは!

      陸軍気象部正面玄関  この写真を見る  

 陸軍の気象が初めて生まれたのは昭和10年で、その後、航空勢力の進展、戦局の拡大で大組織を構築するように至ったが、敗戦と共にわずか10年で歴史を閉じた。

 支那事変に始まって大東亜戦争に終わった動乱期に地上及び航空諸作戦の支援部隊として、陸軍の気象隊があった。それはおおむね地味な後方部隊として認識されていたようですが、陸軍気象部を頂点に大東亜全域に配置された10指に及ぶ野戦気象隊を含め、膨大な組織を形成していた。作戦地の最前線の測候班は常に地上の敵とにらみ合い、あるいは敵の空襲の危険にさらされて任務遂行につき進んだと、田中耕二元大本営航空参謀(元航空自衛隊幕僚副長)が「陸軍気象史」の序文で述べられている。

 この陸軍気象部は戦局の重大化に伴い航空部隊の気象の認識、利用については間然する余地の多かったことは戦訓として注目された。
 気象が作戦に重大な影響があり、時としてはその勝負を左右するものであることは古来からよく知られている。武田軍と上杉軍の川中島合戦において、朝霧の奇襲攻撃は気象を利用した戦例としてよく挙げられる。

 大東亞戦争でも、ソ連参戦に遭遇した気象隊の役目は測候所からキー局に入るモールスと同じような暗号の気象通報傍受による解読と天気図を作るまでの作業を行った。

 ビルマでは雨季明けの晴れた日を待って、航空作戦は気象隊の気象判断により、140機の大編成により、完全に晴れ上がったところを奇襲し、敵機の炎上撃破を38機の大戦果を収めたなど、さまざま作戦を行うための予報を行った。

 なお、中川勇氏は終始陸軍気象関係に携わったので、陸軍気象組織の全容が過去の闇に没し去るのを惜しみ、また、多くの戦没気象関係軍人軍属のための鎮魂の念もだし難く、「陸軍気象史」を刊行した。この中には貴重な関係資料を収集しまとめられている。

 陸軍気象部内にあった「気象神社」  「この写真を見る」 

(気象神社創建担当者の渡会元陸軍気象部教官と後方が神社)

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2007年10月17日 (水)

気象神社物語(12)

気象神社へ「陸軍気象部は何故参拝するのか」

           気象隊の判断のよりどころ

 陸軍気象部の高層観測風景 この写真を見る

 昭和17年2月スマトラ半島のパレンバン空挺作戦に参戦した気象隊の活動の気象判断が攻撃の成功をもたらした。

 陸軍気象史の大東亜戦における気象の判断の参戦記をみると、当時の気象予測作業は気象情報資料が皆無で、予報をすることは難作業であった。
これを飛行機部隊の実況を丹念に聴集、集積し、収斂線を白紙に描き、未来の天気図を作成する方法により解決したのであった。
 その予報は「数日間殆ど同じような変化をする。一面霧が発生し、日出とともに霧は上昇し、高度50-100mの層雲になり、更にその後は層積雲となり、10時には積雲になり午後は雄大乱積雲に発達し、雷雨となり、夜には雷雲は消滅する。午前中は比較的飛行可能であり、飛行機は海上から運河沿いを飛行すれば安全に確実に到着できることを飛行集団長に意見を具申した。
 第一挺師団は運河沿いを高度3000mで飛行直進し、高度200mで空港近くに進入し、ほぼ予定時刻で降下して、将兵は夕刻までに飛行場を占領し、攻撃は成功をもたらした。

 また、ビルマ作戦への気象協力隊の派遣は、飛行集団の各飛行部隊には気象班が協力、転進の指令部には有能な気象部隊の将校を同行させた。昭和18年12月のカルカッタに対する陸海共同の大規模な航空攻撃が行われた。進撃機は陸軍92機、海軍36機で本作戦の気象協力隊は発足以来大規模なもので、一丸となって気象関連作業の準備し、大成功を収めた。

 これに反し、19年3月のレド油田攻撃は共に失敗した。
悪天で引き返し重爆戦隊長以下9機が全滅した。当時の気象判断は「天気は回復していないが、雲間に切れ目はあるかも」予報どおり、雲の隙間はあったが目標の発見はできなかった。攻撃を断念しえなかった戦隊長は援護機を帰し、裸になった戦隊は次々と敵機に襲われた。気象の立場から言えば攻撃日時を決めて悪天と知りながら攻撃の可否を判断するのは酷である。この場合の攻撃の失敗は気象協力隊の不良に帰するのには当たらない。

 このように気象隊には血気盛んな将校からは批判的な目で見られたが、気象への認識不足のところもあったのではなかろうか。
 科学部隊の気象隊に精神的なよりどころとなるところが必要であった。これらを察し、気象部長は「気象神社」の創建を思いたち、気象予報を具申したあとは、神の力をよりどころにしたのだろう。

陸軍気象史参照)

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2007年10月 9日 (火)

気象神社物語(11)

Web_jinjya   気象神社仲見世(インターネットショップ)

 「気象神社」はお天気の神様で、これを全国の皆様に知って頂き、知恵の神様としてより多くの皆様にお気軽に気象災難除けにお参りができるように、また、過去の歴史や参拝する時の気象に関することをまとめた「気象神社ウェブ」サービス事業を展開しております。このサービスは、大きく分けて実在神社コーナーと仮想神社コーナーがあり、皆さん参加型の日本で始めてのインターネットです。
まず、実在神社コーナーは音声付の動画対応のウエブカメラが設置されています。この気象神社を訪れて、自分の姿をお友達に見てもらって、スナップ写真(静止画)を撮ることもでき、写った写真を自分のブログに反映することもでき、皆さんで楽しんで気象神社を盛り上げて頂く様に工夫されています。
また、最新の気象情報が手軽に入手でき、天気予報や東京都や杉並区の詳細な天気予報と防災情報も掲載されており、リンクも航空安全災難除け・旅行安全・交通安全を奉賛する「航空神社」へのリンクバナーがあり、航空に大変役に立つ情報が満載されております。

 更に、仮想神社コーナーでは、画面中央に「おみくじ」があり、ここをクリックすると気象の理解を深めて頂くことができるコラム風おみくじの提供もあります。このコーナーでは「大吉」など今日の運勢が出てきて、最も人気が高く訪問者が多くいます。季節にあった気象の解説や生活に関する気象知識が得られ、コラムを日替わりで見ることができます。                                                                                                                    このおみくじを印刷(プリンター出力)し、杉並区高円寺の氷川神社社務所に持って行くと気象神社印を宮司からお受けすることができます(代金は100円)。                              神社には下駄の絵馬もあり、社務所では気象神社のお守りや神礼もありますので、是非参拝方お願いします。

 画面には仲見世があり、てるてるくんToy ランド) 気象グッズ(ウェザーショップ)防災グッズ(インテリア Miya)環境グッズ(Sweet☆Studio)エコグッズ(The Zakka-ya)健康・美容グッズ(シリウス) てるてるくん(Toy ランド)  6店のお店が並んで、ネットショップで買い物ができるように便利になっています。ここにだけしかないオリジナルグッズが手に入るようになっています。
 ここでの一番人気は、神社キャラクター「てるてるくん」グッズでお子様に人気があり、また、OLの方にはUVセンサー付きの携帯ストラップとなっています。
紫外線を浴びると『てるてるくん』が黄色に変化します。お出かけ時のお肌の予防策になります。(てるてるくん本体:白 ストラップ紐:黄色)
☆『てるてるくん』ストラップはメールにてお問合せすれば送料の割引がございます

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2007年10月 1日 (月)

気象神社物語(10)

    「気象神社Web」サービスの事業企画の背景

  気象神社「おみくじ」  大吉?」をクリック      

 昭和25年5月10日に財団法人日本気象協会が創立し、気象庁の公表する防災が主な目的だった気象予報などを報道機関に解説する役割を、部分的に公益法人が行うようになったのが民間気象事業の始まりでした。多様化する民間へのサービスを、国が行なうことに限界がありました。
 折しも、テレビ全盛時代が到来し、天気予報番組で多くのキャスターが活躍し、サービス内容も向上しています。
 海上工事関係者には、安全を確保するため工事区域の強風や高波の詳細な予測が必要で、個別に詳細な気象情報サービスも行われ、予測が外れると数億円の損害を被ることも数多くあり、外れると損害賠償となり、予測を行う会社責任者は大きな責任を負うことになります。数値予測モデルの精度は飛躍的に向上しましたが、海域地域の10分ごとの気象・波高予測は肝心な時に当たらず、科学の力に頼る気象予測の最後は「神頼み」することも多いのです。 

 こんな時、気象神社のお守りを前にインターネット映像を見ながら気象神社に参拝することが必要となり、このような要望にお答えするためにこの事業を始めました。
 過去に、長野オリンピック白馬八方尾根のジャンプ競技で原田選手が優勝しましたが、あの時大雪の中、競技を実施するかの判断も白馬競技場で予測者が判断しました。その時の予測者は神に祈ったと聞きました。
 インターネット利用者は年々増えつづけており、気象の安全災難除けを遠方でもいつでも参拝でき、いつでも何処でもインターネット・携帯があれば参拝できる条件をつくることを考えたのが、「気象神社Web」事業サービスです。
 このようのなかで、インタネットの神社サイトは御神体が存在していないと言うことで神社庁より自粛を求める通知が出ております。ネット上で仮想的に作られた実在しない神社Webサイトも多く 存在しています。
 しかし、気象神社の実在を広く宣伝することで、遠方の方でも身近に感じてもらい、実際の場所で訪問して見たい気持ちを高めるとともに、気象知識や気象現象・予測に関する事業者や予測担当者の心のよりどころになり、遠方の人の助けになれるようにと氷川神社山本宮司はこのWebサイトを事業展開していると話しています。

 このサービスは気象に縁のある神社として、わざわざ神社に足を運ばなくても、毎日いつでも参拝ができ、現地と同様にご利益があると言われています。
この「気象神社Web」サービスは、カメラを使って「気象神社」の最新現地画像閲覧や声を聞くことが出き、遠方の皆様でも現地の独特の雰囲気を味わって頂けるようになっています。
「気象神社Web」のサービスは現地へお越し頂けなくても祈願された皆様に御加護があることを願っております。
 晴れ祈願、合格祈願(気象予報士合格)、災害防止・天候豊作、登山遭難防止、津波防止、海難防止、航空事故防止、交通事故防止、予報官・予報士の予測適中祈願など。

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2007年9月27日 (木)

気象神社物語(9)

  気象神社のてるてる坊主「てるてるくん」とは?

               てるてる坊主の始まりは?

 岩井宏美(帝塚山大学名誉教授/民俗学)によるとてるてる坊主を吊るすのは平安時代に中国から伝わった風習で、「まじない」、「呪術」など庶民に身近な仏教文化とともに入ってきたと考えられます。

 中国では「掃晴娘」(そうせいじょう)と呼ばれるほうきを持った女の子の紙製人形を吊るし、晴天を祈ったと言われ、ほうきは福を引き寄せる力があるとされ、女性は男性より霊力が強いと信じられていた。しかし、日本では女の子ではなく僧侶を模した。かつての天気祭りをつかさどったのが、修験者や修行僧を意味する「聖」(日和り:ひじり)だったためと考えられる。

 柳田国男氏の著作全集に収められた一文で江戸時代後期の随筆、喜多村著「嬉遊笑覧」(きゆうしょうらん)に「てるてる坊主」が記されている「昔の江戸などでは人形にわざと目を入れず、天気になったら目を描いてやる宣言する例もあった」としている。
願い事がかなえば墨を入れお祭りをするはまさにダルマと同じ発想である。

 「てるてる坊主」は以前、地域によっては「てれてれ法師」「てりてり坊主」「日和坊主」など呼ばれていたが、長野県池田町出身の作家浅原六郎氏の童謡「てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ♪」の歌が広がってからはおおむね「てるてる坊主」にそろってきたと言います。
 

 Teruteru_1st_2山本宮司によると西日本地方では日和坊主といい、晴天祈願に白い坊主頭の人形を吊す風習とともに、逆に雨乞いの際には黒い坊主頭の人形を吊るす風習があった。
 気象神社にも社殿横の絵馬掛け柱に、可愛らしいて「るてる坊主」が飾られている。雨が降り続くと商売にも影響し、天気の回復を気象神社に祈願してくる人が多いと言う。

  そこで、気象神社のWebのキャラクターとして「てるてるくん」と名前をつけました。明るく健康で良い天気が続くようにと言うイメージで作成し、まずは携帯のストラップ用に作製しました

(朝日新聞参照・氷川神社社報第94号より)

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名前 てるてるくん
生まれた日 平成19年 5月10日
性別 男の子
好きなもの おひさま・青空
特技 ゆらゆらダンス

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2007年9月26日 (水)

気象神社物語(8-2)

        気象にまつわる神社(その2)
                 「幣立神宮」

 熊本県上益城郡山都【やまと】町(旧名:阿蘇郡蘇陽町)にあり、旧蘇陽町は九州の「へそ」と言われるところで、九州のほぼ真中に位置する、やさしくて爽やかな風が吹く優しい町です。幣立神宮は、元伊勢宮として、祖神を天之御中主とする日の神をおまつりしています。世界の全ての神は天之御中主から生まれたとしています。世界の人々は日本から生まれたものとして、世界の人類を示す「五色の面」が納められています。
 Heitatejingu_450 幣立神宮

 祭神は神漏岐命・神漏美命【かむろぎのみこと・かむろみのみこと】である。両神は古事記で有名な天照大御神よりかなり以前の神で人類の平和を願い火の玉に移ってここ幣立の地にご降臨された宇宙からの神なのだという。ほか大宇宙大和神【おおとのちおおかみ】、天御中主大神【あめのみなかぬしおおかみ】、天照大御神を祀ってある。
しかし、社殿は錚錚【そうそう】たる神々のそれとはふつりあいなほど小じんまりとしたものです。

また、幣立神宮内には「東の宮」があります。.

Jinjya2_2 「東の宮」(幣立宮HP参照

 ここは天児屋命、風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神、をお祀りしてあります。天児屋命は祝詞や言霊、出世の神ともされ、この「日の宮」の初代神官とも言われます。風、雨、火の大神様は自然界の発動源を司る神様でありまして、まさに龍神様の御働きであります。阿蘇の地を、風を起こし雨を降らせ火を燃え上がらせ、永年に渡りご守護される神様であります。

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気象神社物語(8-1)

         気象にまつわる神社(その1)

 日本では、おそらく唯一“お天気の神様”をお祀りする神社は「気象神社」であり、将来の気象の安定と気象技術者が天気予報をよく当たるように祈願する神様です。

 気象神社は戦時中、東京都杉並区旧馬橋四丁目にあり陸軍気象部内で祀られたもので、当時の気象隊は大変ご苦労であったと思われます。現在のように電算機・通信技術の発達や静止気象衛星がなかった時代であり、天気を予測するにも戦争中は敵地の天気状況が把握できなく、予測確率は現在よりかなり低かったと思います。
 気象隊は飛行機の離発着や敵地までの高層風を予測しなければならず、それを当てなければ、戦争に影響が出ることもあります。戦争時は悪天でも飛行機・軍艦・戦車を動かすので、気象予測は陸上進攻作戦には大きな影響を与える要素でもあり、予測が外れて戦死する兵隊さんやパイロットもいたと思われます。
「気象神社」はそんな思いもあり、陸軍気象部は気象神社の前で予報が当たることを神に祈っていたことでしょう。 

さて、気象を祀る神社は他にもありご紹介します。

「綾部八幡神社」

佐賀県中原(なかばる)町は佐賀県東部に位置する人口約9000人の町。
中原町に、800年の歴史を持つ綾部八幡神社があります。風神が祀られ、毎年7月15日には、1年間の風の影響を占う神事が行われるほど「風の町」として有名です。風の変化が多い地域として気象学的にも「風の道」として位置付けられており、毎年7月15日に行われる「綾部八幡神社」の「旗上げ神事」は、日本最古の天気予報として有名な神事があります。楼門にある額にも「日本最古の気象台」の文字があります。

同神社にある樹齢700年のイチョウの幹に、竹の先に結びつけた小旗を7月15日に固定し、9月24日の「旗降し神事」で小旗が降ろされるまでの間、50 メートル の高さで、風に揺れ動く小旗を観察します。旗のなびき具合やその形で1年の天気予報を占い、「この天気予報が当たるんですよ。だから地元民に頼られ神事が800年も続いているのではないでしょうか」と、同神社宮司の吉戒雅臣さん(62)は話されています。

 Jinjya1 綾部八幡神社の旗上げ神事

「風の町」と呼ばれるのは綾部八幡神社が「日本最古の気象台」と呼ばれるほど、天気予報を的中させることに由来しています。風になびく小旗の揺れ具合を毎日観察して占い、気象台の予想より当たった例も多いと言います。

1993年、福岡管区気象台の8月の予報は「晴れて暑い日が多い」。同神社は「雨が多く晴れは少ない」と予想。これが的中し、雨による災害が多発しました。同町が筑紫山系の峡谷に位置し、風が有明海から玄海灘に抜ける「風の通り道」にあることも関係していおり、風占いの天気予報と気象変化の因果関係は、佐賀大学の調査でも裏付けられているとか。

なお、中原町には風をテーマにした「風の館」では、天気コーナーなどがあり、天気の変化を知ることができる。風をモチーフにした町のイメージキャラクター「ナーミー」は、町役場の名刺印刷をはじめ、道路に描かれるなど、町は風一色です。                                                     (日刊スポーツ九州参照)

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2007年9月18日 (火)

気象神社物語(7)

      例祭日は気象記念日に因んで6月1日

 気象神社の例祭は気象記念日に因んで毎年6月1日で執行されます。昭和60年6月1日は第1回目の例祭が厳粛に執行されました。守護神様のご加護により薄日のさす好天に恵まれ、気象関係者と氏子崇敬者により、ひとり一人玉串を奉賛しました。当日は「植木市」も開催されので、当日は一日参拝者や通行人も参拝されました。昭和60年以降は、山本宮司による気象神社例祭が毎年施行されるようになりました。
また、平成15年6月1日は気象神社が55年振りに第三代目「気象神社」が御造営となり、竣工式と例祭が盛大に行われました。
また、今年の例祭は気象神社インターネットサービスが5月10日開始され、現地のリアルタイムの映像で例祭の参拝の様子がライブ画像で撮影されました。
その例祭の様子はメニュー「気象神社現在の様子」の隣の写真をクリックすると「例祭の様子2007年」が連続写真で見れます。

気象神社のホームページ

21  平成19年6月1日気象神社例祭 玉串奉賛 

気象神社前に参列者一同(気象関係者・旧陸軍気象部OB・氏子・TV関係者(フジテレビ天達キャスターなど)が集まり、玉串を奉賛した。今年はラニーニャ現象が発生し、夏の天候は東・西日本は「平年並~高い」傾向の猛暑と言われておりました。

今年は猛暑にならないよう例年にも増して気象神社にお祈り申し上げましたが、今年は太平洋高気圧が強く、8月16日の最高気温は、観測史上の記録 40.9℃ 熊谷・多治見、2日連続40℃以上(初)館林・越谷、また、同じ日に40℃以上の地点が5ヶ所というのも最多記録で、史上最も暑い一日でした。

四国地方は雨が少なく農作物が心配されておりましたが、台風の接近で大雨が降り解消されました。異常気象が世界各地で頻繁に起きて経済にも影響が出てきました。気象神社のインターネットで今年の台風時は参拝しましたら被害がなく大変嬉しく思っています。

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2007年9月17日 (月)

気象神社物語(6)

       気象神社第3代目誕生 
Ca340005 平成15年6月1日創建

 気象神社の創建は昭和19年旧陸軍気象部創立記念日に因んで初代気象神社が建造されが、戦災により焼失されたが直ぐに再建された。その後、氷川神社境内に移設されて末社に鎮座された。しかし、50年を過ぎた頃から老巧化が進み、一分改修したが、老巧化が更に進み、55年を迎えた平成15年6月1日気象神社例祭に間に合うように新社殿の造営に山本宮司は踏みきった。 テレビ放映やマスコミの宣伝により参拝者が年々増加し、参拝者にふさわしい社殿や造営の青写真・設計を氷川神社責任役員 渡邊建設社長 渡邊史司様に依頼した。新社殿は平成14年氷川神社大例祭終了後から具体化され、渡辺社長様と宮司相談により、気象神社の配置、摂社との均衡を考えて、参道の中心に気象神社を移し変え、他の摂社は奥の突き当たりに、それぞれ並列んに安置することにした。何しろ狭い敷地を目一杯の構築物の移設・建築なので、参拝者に安心して参拝できるように配慮した設計にした。起工式は平成15年3月24日執行されました。

 新社殿は旧気象神社同様,神明造り、第二代神社規模より少し広げ、木曽桧材、屋根は銅版葺です。宮大工は西多摩郡檜村中里 小林光平氏、基礎は地震にも崩れない鉄筋コンクリート造り、神社本体は檜村で制作したものを大型クレーンにて吊り上げ設置した。清楚な社殿で祈願できる環境に配慮し、第三代気象神社は平成15年6月1日の例祭前に完成しました。 気象神社の例祭は6月1日気象記念日に因んで施行され、第1回は昭和60年6月1日でしたので第18回目の例祭日に、参列者ひとり一人が玉串を奉納された。

 最近の参拝者は、天気が仕事に左右される建築業者、工学技術、気象予報士試験合格祈願・学校入学合格祈願など、経済の低迷で人々の気持ちも暗くなりが地なので、世の中を明るくして知恵を頂きたいと気象神社(知恵の神)に参拝者が多くなっていると山本宮司は話しています。

気象神社はインターネットで現地のリアルタイムの映像で参拝が出来る。
ライブ画像のリアルタイム気象神社(http://www.kisyoujinjya.jp/)の様子が視聴することができる。
(サービス開始日:平成19年5月10日)

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2007年9月14日 (金)

気象神社物語(5)

                   やごころおもいかねのみこと
          御祭神「八意思兼命」(知恵の神

気象神社は昭和19年杉並(旧馬橋4丁目)の旧陸軍気象部構内に造営されていました。御祭神は何の神様をお祀りしたかは、元陸軍気象部教官(陸軍大尉)渡会殿は現存している方々に聞きましたが分からないと言っています。
気象神社の由緒に詳しい元東京航空気象台予報官 呉林肇様は、御祭神のことを山本実前宮司(現宮司の父君)にお訊ねしたところ「天気予報は学問の粋であり、将来を予測する難しい仕事であるから」とのお答えでした。気象技術者にふさわしい御祭神を「八意思兼命」(やごころおもいかねのみこと)を神職が見出されものと思います。(「氷川神社社報」昭和58年5月吉日第29号と昭和62年5月吉日第45号)に掲載されている。

 また、山本雅道宮司の「八意思兼命」はどんな神様なのか?の質問に ”日本神話によると思兼命(八意思兼命)は天孫降臨の際に尊に随伴した神の一人であり、天の岩屋戸から天照大神を引き出すために、神楽舞の方策を講じた神で、八意思兼命は多くの人々の思慮を一人で兼ね備えた「知恵の神」なのである”思兼命のカネは大工道具の曲尺のカネに通じるとして、大工が建前の時に行う「手斧初めの儀式」の主神にもなっている。思兼命を御祭神とする神社は、思金神社(横浜市)、秩父神社(埼玉県)、静神社(茨城県)、阿智神社(長野県)は、いずれも建築関係の神として祀られている。水の神や山の神は数多くあるが、天気の神としては気象神社だけで、「晴・曇・雨・風・雷・霜・雪・霧」などの8つの気象現象を制御祈願する神社である。01_2 御祭神「八意思兼命」(知恵の神)由来版

 八意思兼命を「天気の神」としたのは天照大神が天の岩屋戸に隠れて、世の中が暗闇になった時に岩戸を開ける方法を考えられたので、暗闇を明るくする力を持った神とされたからだと言う。
 なお、山本雅道宮司は「八意思兼命」を御祭神している神は秩父神社、戸隠神社に祀られており、この名称をそのまま神社名としている神社が横浜市栄区にある「思金神社」としてある。宮司が昭和62年4月JR根岸線港南駅近くの小高い丘の静かな山間に八意思金大神を祀る「思金神社」を訪問されました。思金と言う名称を直接表示している神はここにしかないのではと思われる。

 八意(やごころ)とは意(こころ)を思いはかることは高度の結びの神性であり、常に天照大神の「み意(こころ)」を心として一切の私心を無にして仕え奉られたものと思われると言われている。

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2007年9月13日 (木)

気象神社物語(4)

        気象神社二代目の創建

 気象神社は現在の氷川神社の北西方向800mの旧陸軍気象部(昭和13年3月31日付きで陸軍通信学校から創設された)杉並区馬橋4-499でのちに気象研究所(杉並区高円寺北4-35-8)の正門東側にあった。旧陸軍気象部初代気象部長新妻大佐によって構内に祀られていたものを神宮出身の某見習士官により「気象神社」と称されたと言われています。

 昭和19年4月10日陸軍気象部創立記念日に因み「気象神社」創建されたが、昭和20年4月13日の杉並区馬橋地区の米軍による空襲により、旧陸軍気象部が被災され、その際「気象神社」も焼失された。

 渡会殿の調査によると二代目気象神社は終戦直前に気象神社の設計をされた松下東京大学教授の手により、再建されたことが判明しました。当時は建築資材も職人の手配も極めて困難な状況であったが、自ら図面を描かれ八方奔走の末、漸く再建に漕ぎつけられた経過を松下教授から感激深げに渡会殿に語って下さったそうです。

 終戦により、旧陸軍気象部の施設は昭和22年10月16日中央気象台研究部(のち気象研究所)が入りました。しかし、気象神社の社殿は空になり、付近の子供の遊び場と言うありさまでした。旧陸軍気象部の構内にあった気象神社は戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったため、当時の氷川神社宮司山本実氏(現山本雅道宮司の父君)は荒れるにまかされている気象神社のことを知り、連合軍総司令部宗教調査局(文部省内)ニコラウス少佐に折衝し、氷川神社社殿に無償で譲り受けました。

 気象神社社殿は昭和23年9月15日に運び込まれ、この社殿とこの末社の台座は同じ寸法でピッタリ合ったそうです。18日の氷川神社例大祭の際に遷座祭が行われました。
遷座した社殿にはこの末社の三神社(日枝神社・御嶽神社・稲荷神社)と共に「気象神社」の名前が掲示されました。

 なお、渡会殿は昭和19年5月に気象部隷下部隊として陸軍気象部教育部が福生にでき、副官を命じられて移駐されたので二代目気象神社のことはその後40年間忘れており、昭和58年の戦友会で気象神社が氷川神社境内に移されていることを知り、思わず吾の耳を疑ったほど驚かされたとのことです。

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二代目気象神社・・・一世代前(平成15年5月31日以前)の気象神社の様子

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気象神社物語(3)

         気象神社創建の動機

 気象神社創建については氷川神社社報 第45号(昭和62年5月吉日発行)に、氷川神社 宮司山本雅道様と元陸軍気象部教官(陸軍大尉)渡会正彦殿が鼎談され「気象神社の今昔」について、創建の目的について掲載されている。渡会元陸軍気象部教官殿によると、気象神社は昭和19年4月10日陸軍気象部創立記念日に因んで創建された。

 当時陸軍気象部第三期甲種幹部候補生の教育終了後、気象部付き各種気象学生の教官をしていた渡会殿が昭和19年4月10日の陸軍気象部創立記念日に因んで創建するよう元陸軍気象部長(陸軍大佐)諌式鹿夫殿から御下命され、気象神社建立に携われた。

 気象神社創建の動機は、気象は科学として多分野に学術的な研究分野であり、当時の陸軍気象の技術水準は気象観測具や各種のラジオゾンデ、ラジオトラッキング等を駆使する高層気象観測、断熱線図や大気線図による気団解析、高層天気図、亜細亜天気図等も利用した気象判断等世界的にも誇り得る高度なものだった。しかし、又それだけに気象部隊にはややアカデミックな学術的気風もあって、軍隊としての性格には多少の暖味なところもあった。 しかし、このような科学部隊としての気象隊の精神的な拠り所となることを企図されたものと渡会殿は私見として話をしている。

 渡会殿は東京大学建築科出身であったので大役を命令されたのでしょう。
社寺建築には伝統的な様式な作法、規矩等があり、施工は専門の宮大工によらなければので、神社建設を手がけたことがなかったので大変困ったとか。そこで、第ニ期甲種幹部候補生研究班にお居れて、数ヶ月前召集解除され東京大学に復職された松下紀清夫(元陸軍中尉)に相談し、当時の内務省神社局に居られた神社建築の権威である角南隆先生に設計を依頼した。出来上がった設計図は伊勢宮の外宮に倣った素木の神明造りで、簡素,清淨、気品に溢れた見事なでものでした。 また,御神域については造園学の泰斗であった田村剛東大教授にお願いし、二段の基礎壇上に清楚な玉垣を囲らして玉石を敷き詰めて、社殿にふさわしい荘厳な設計をして頂き、気象神社は昭和19年4月10日の気象部創立記念日に合わせ竣工し、遷座祭が施工され、渡会殿はお賞の言葉を頂いた次第です。

 気象神社は何時如何なる目的で創建されたか、建築に携わった生き証人として語られています。
気象神社は戦時中、旧馬橋4丁目にあった陸軍気象部内に祀られていた。天候は戦争の上陸進攻作戦に大きく影響し戦争の勝ち負けにも左右され、特に,当時は飛行機のパイロットに利用されたのでしょうか。

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初代「気象神社」昭和19年4月10日
(渡会元陸軍大尉殿提供)

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2007年9月 8日 (土)

気象神社物語(2)

           気象神社の由緒

神社名: 気象神社
祭神: 八意思兼命(やごころおもいかねのみこと) 「知恵の神」
歴史: 現在の馬橋小学校のところにある陸軍気象部内に造営(昭和19年)
現在地に移転(昭和23年) 別当守 高円寺 氷川神社が管理
詳細はこちら気象神社公式ホームページをご覧下さい。

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 氷川神社境内施設の西側に気象神社入口の第三気象聯隊戦友会・気象関係戦友会有志が立てた説明版「気象神社由緒」によると、

 この気象神社の祭神は八意思兼命(やごころおおもいかねのみこと)(知恵の神)。陸軍気象勤務の統括・教育機関として旧馬橋4丁目(現・高円寺北4丁目)に創設された陸軍気象部の構内に、昭和19(1944)年4月10日に造営。戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったため、当局に申請して払い受け、昭和23(1948)年9月18日の氷川神社例大祭の際に遷座祭を行ったという。
 陸軍気象部があった中野・高円寺の軍事施設の歴史に触れておこう。明治時代後半に東京市内の人口が急増、広大な敷地を要する官公庁や軍事施設、学校や寺院等は、都市計画により郊外に移された。

 東京市に隣接した中野の原っぱにも諸施設が転入。生類憐れみの令で設けられた中野犬小屋跡の現・警察大学校の場所には、日清戦争直後の明治30(1897)年に陸軍鉄道大隊が創設され、早稲田通りに並行して天沼の日大二高までが、幅30~50mの鉄道線路敷設と機関車運転訓練の演習場になった。

 鉄道大隊は、明治35(1902)年に電信教導隊が併設され、鉄道隊と改称。日露戦争で砲弾命中状況の気球観測が成功し、明治40(1907)年に鉄道隊に気球隊が併設された。鉄道隊が翌年にかけて転営後は、電信隊(電信教導隊が改称)と気球隊の施設になった。

 第一世界大戦での飛行機の重要性が認識され、大正8(1919)年に気球隊は飛行機に編成替えになり、陸軍は「中野飛行場」を計画。翌9年に格納庫用地として、馬橋公園を含む軍用地の拡大を行ったが、狭くて滑走路予定地に民家も多いため、建設は中止された。
放置されていた格納庫用地に、昭和元(1926)年に陸軍通信学校が開校。昭和14(1939)年に通信学校が転出して、入ってきたのが陸軍気象部である。 
戦前の気象観測は中央気象台(現・気象庁)のほかに陸軍気象部、海軍水路部でも行い、陸軍は昭和13(1938)年に気象部を設立、4気象連隊があった。

 戦後、陸軍気象部は運輸省(現・国土交通省)・気象庁の気象研究所に改組。敷地は3分の1に縮小され、残りは馬橋小学校用地などとして払い下げられた。その後、気象研究庁は昭和55(1980)年に筑波学園都市に移転。その跡地は馬橋公園になった。
 陸軍気象部の玄関右側に鎮座し、勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したという気象神社である。

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気象神社物語(1)

  日本の唯一天気の神様を祭る「気象神社」とは?

 JR中央線、高円寺駅下車、南口から徒歩4分のところに、日本唯一という珍しい気象神社は氷川神社境内末社として祀られている。気象神社はインターネットで現地のリアルタイムの映像で参拝が出来る。(ライブ画像で見れるリアルタイム気象神社からも参拝できる)
 平成19年9月7日台風9号接近時、被害がないように夜でもインターネットで参拝でき、被害のなかったことは大変良かった。 

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平成19年9月8日の画像  てるてるくん

 最近、気象神社の映像を見ていると、猫がお賽銭箱の上でのんびり寝ていることも。
また、この神社のキャラクターのてるてる坊主がぶら下がっている。このてるてる坊主は「てるてるくん」と言い、通常は白色であるが、日が当たると黄色くなるUVセンサー付きのストラップで気象予報士試験合格のお守りとして、とても人気がある。携帯電話のストラップとしても注文が殺到し売れきれ状態が続いているそうです。

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2007年8月23日 (木)

信州の夏の話題

信州の夏の話題

今年の夏は、8月に入ってから太平洋高気圧は強く暑い日が多くなっている。8月16日は岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市の最高気温は40.9度を記録するなど、全国的にこの夏一番の猛暑となり、日本の観測記録を73年ぶりに塗り替えた。

記録としては、16日の最高気温40度以上の地点は、以下の5地点であった。

順位地名/県名温度時間
1位 熊谷/埼玉県 40.9度 14:42
2位 多治見/岐阜県 40.9度 14:20
3位 越谷/埼玉県 40.4 度 13:50
4位 館林/群馬県 40.3度 15:00
5位 美濃/岐阜県 40.0 度 14:40

史上最も暑い一日だった。アメダスの観測時間間隔が細かくなっていたら、最高記録はもっとあちこちで更新されていたかも。
 長野県松本市も8月に入り毎日30度以上で、10日からは35度以上の日が続いており、40度には及ばなかったが、16日は36.8度の猛暑日であった。

海抜の高い山国、長野県でも日中は30度を越し、風も弱く、毎日同じような炎天下が続く。長野県で本格的な夏の日がいく日あるのか、各地における真日日数(最高気温30度以上の日数)を平年でみると、長野県内で一番期間の長いのは下伊那郡泰阜村以南で55日から57日、次いで40日以上が天竜側沿いの松川町以南と千曲川沿いの上田盆地から善光寺平、松本の平野部である。
 一方、避暑地で有名な軽井沢は4日、野尻湖6日、菅平・志賀高原・上高地では30度以上の日はほとんどない。沿岸部の東京は47日、横浜39日、新潟32日となっている。
長野県は内陸性気候であるので、標高差や緯度差をなくしても強い日射で、盆地では気温が沿岸部より高いが、人体が感じる暑さは気温のみではなく、湿度・風・日射などの気象要素によって決められる。 

暑さの不快を表現するものに不快指数があり、これは気温と湿球に係数を乗じて出した指数である。この値が75以上であれば人口の10%が不快を感じ、80になると65%、85以上になるとほとんどの人が不快となるという。
長野県の平野部は日中の気温は沿岸部より高いが湿度が小さい(8月の平均湿度東京80%、長野76%)ので、沿岸部より蒸暑さが少ないことと、夜間の放射冷却により涼しさがあるため、不快指数は沿岸部に比べてかなり小さく過ごしやすい。
 なお、アメリカ人と、日本人とでは指数が違い、アメリカ人は80%で全員不快を感ずるが、日本人は85で93%が不快を感ずるという。

長野県の最高気温の記録は(私の知る限り)昭和17年8月3日で泰阜村39.8度(今年塗り替えられた?)。日本の記録は上記の40.9度である。世界記録は、バスラ(イラク南東部)58.8度である。日本の暑さは最高気温の値で世界に比較すれば問題にならない。インドでは日本より相当暑いので、家は石造りが多く日中は戸を閉めている。窓を開放して風を入れる日本と比べると反対である。日本も最近は冷房を入れるので、窓を閉めることが多くなってきた。しかし、ヨーロッパと比較すればずっと暑い。これは日本がヨーロッパより緯度の低いこともあるが、一番に湿度が高いことである。日本の中でも夏の過ごしやすい長野とパリを比較すると長野でもパリよりは湿度が大きく気温も高いので不快度は長野が高くなっている。

今年の猛暑の原因は、ラニーニャ現象により、太平洋高気圧の勢力を強めているためであり、高齢者の熱中症による死者が急増している。
8月17日も午前中から東海・中部地方を中心に気温が大きく上昇した。岐阜県多治見市では午後零時半に40.8度と、前日記録した国内観測史上最高の40.9度に迫った。地球温暖化現象が一歩進んでいるように思える体感温度だ。

ラニーニャはスペイン語で「女の子の意味」。
南米ペルー沖の海水温が0.5度以上低い状態が半年間続く現象で、
日本の夏の高温に密接に関わっているとされる。逆の言葉は「エルニーニョ現象

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