気象神社物語(2)
気象神社の由緒
神社名: 気象神社
祭神: 八意思兼命(やごころおもいかねのみこと) 「知恵の神」
歴史: 現在の馬橋小学校のところにある陸軍気象部内に造営(昭和19年)
現在地に移転(昭和23年) 別当守 高円寺 氷川神社が管理
詳細はこちら気象神社公式ホームページをご覧下さい。
氷川神社境内施設の西側に気象神社入口の第三気象聯隊戦友会・気象関係戦友会有志が立てた説明版「気象神社由緒」によると、
この気象神社の祭神は八意思兼命(やごころおおもいかねのみこと)(知恵の神)。陸軍気象勤務の統括・教育機関として旧馬橋4丁目(現・高円寺北4丁目)に創設された陸軍気象部の構内に、昭和19(1944)年4月10日に造営。戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったため、当局に申請して払い受け、昭和23(1948)年9月18日の氷川神社例大祭の際に遷座祭を行ったという。
陸軍気象部があった中野・高円寺の軍事施設の歴史に触れておこう。明治時代後半に東京市内の人口が急増、広大な敷地を要する官公庁や軍事施設、学校や寺院等は、都市計画により郊外に移された。
東京市に隣接した中野の原っぱにも諸施設が転入。生類憐れみの令で設けられた中野犬小屋跡の現・警察大学校の場所には、日清戦争直後の明治30(1897)年に陸軍鉄道大隊が創設され、早稲田通りに並行して天沼の日大二高までが、幅30~50mの鉄道線路敷設と機関車運転訓練の演習場になった。
鉄道大隊は、明治35(1902)年に電信教導隊が併設され、鉄道隊と改称。日露戦争で砲弾命中状況の気球観測が成功し、明治40(1907)年に鉄道隊に気球隊が併設された。鉄道隊が翌年にかけて転営後は、電信隊(電信教導隊が改称)と気球隊の施設になった。
第一世界大戦での飛行機の重要性が認識され、大正8(1919)年に気球隊は飛行機に編成替えになり、陸軍は「中野飛行場」を計画。翌9年に格納庫用地として、馬橋公園を含む軍用地の拡大を行ったが、狭くて滑走路予定地に民家も多いため、建設は中止された。
放置されていた格納庫用地に、昭和元(1926)年に陸軍通信学校が開校。昭和14(1939)年に通信学校が転出して、入ってきたのが陸軍気象部である。
戦前の気象観測は中央気象台(現・気象庁)のほかに陸軍気象部、海軍水路部でも行い、陸軍は昭和13(1938)年に気象部を設立、4気象連隊があった。
戦後、陸軍気象部は運輸省(現・国土交通省)・気象庁の気象研究所に改組。敷地は3分の1に縮小され、残りは馬橋小学校用地などとして払い下げられた。その後、気象研究庁は昭和55(1980)年に筑波学園都市に移転。その跡地は馬橋公園になった。
陸軍気象部の玄関右側に鎮座し、勤務前に気象観測員が気象予報の的中を祈願したという気象神社である。
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