気象神社物語(4)
気象神社二代目の創建
気象神社は現在の氷川神社の北西方向800mの旧陸軍気象部(昭和13年3月31日付きで陸軍通信学校から創設された)杉並区馬橋4-499でのちに気象研究所(杉並区高円寺北4-35-8)の正門東側にあった。旧陸軍気象部初代気象部長新妻大佐によって構内に祀られていたものを神宮出身の某見習士官により「気象神社」と称されたと言われています。
昭和19年4月10日陸軍気象部創立記念日に因み「気象神社」創建されたが、昭和20年4月13日の杉並区馬橋地区の米軍による空襲により、旧陸軍気象部が被災され、その際「気象神社」も焼失された。
渡会殿の調査によると二代目気象神社は終戦直前に気象神社の設計をされた松下東京大学教授の手により、再建されたことが判明しました。当時は建築資材も職人の手配も極めて困難な状況であったが、自ら図面を描かれ八方奔走の末、漸く再建に漕ぎつけられた経過を松下教授から感激深げに渡会殿に語って下さったそうです。
終戦により、旧陸軍気象部の施設は昭和22年10月16日中央気象台研究部(のち気象研究所)が入りました。しかし、気象神社の社殿は空になり、付近の子供の遊び場と言うありさまでした。旧陸軍気象部の構内にあった気象神社は戦後の神道指令で除去されるはずが、連合軍宗教調査局の調査漏れで残ったため、当時の氷川神社宮司山本実氏(現山本雅道宮司の父君)は荒れるにまかされている気象神社のことを知り、連合軍総司令部宗教調査局(文部省内)ニコラウス少佐に折衝し、氷川神社社殿に無償で譲り受けました。
気象神社社殿は昭和23年9月15日に運び込まれ、この社殿とこの末社の台座は同じ寸法でピッタリ合ったそうです。18日の氷川神社例大祭の際に遷座祭が行われました。
遷座した社殿にはこの末社の三神社(日枝神社・御嶽神社・稲荷神社)と共に「気象神社」の名前が掲示されました。
なお、渡会殿は昭和19年5月に気象部隷下部隊として陸軍気象部教育部が福生にでき、副官を命じられて移駐されたので二代目気象神社のことはその後40年間忘れており、昭和58年の戦友会で気象神社が氷川神社境内に移されていることを知り、思わず吾の耳を疑ったほど驚かされたとのことです。
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