気象神社物語(12)
気象神社へ「陸軍気象部は何故参拝するのか」
気象隊の判断のよりどころ
陸軍気象部の高層観測風景 (この写真を見る)
昭和17年2月スマトラ半島のパレンバン空挺作戦に参戦した気象隊の活動の気象判断が攻撃の成功をもたらした。
陸軍気象史の大東亜戦における気象の判断の参戦記をみると、当時の気象予測作業は気象情報資料が皆無で、予報をすることは難作業であった。
これを飛行機部隊の実況を丹念に聴集、集積し、収斂線を白紙に描き、未来の天気図を作成する方法により解決したのであった。
その予報は「数日間殆ど同じような変化をする。一面霧が発生し、日出とともに霧は上昇し、高度50-100mの層雲になり、更にその後は層積雲となり、10時には積雲になり午後は雄大乱積雲に発達し、雷雨となり、夜には雷雲は消滅する。午前中は比較的飛行可能であり、飛行機は海上から運河沿いを飛行すれば安全に確実に到着できることを飛行集団長に意見を具申した。
第一挺師団は運河沿いを高度3000mで飛行直進し、高度200mで空港近くに進入し、ほぼ予定時刻で降下して、将兵は夕刻までに飛行場を占領し、攻撃は成功をもたらした。
また、ビルマ作戦への気象協力隊の派遣は、飛行集団の各飛行部隊には気象班が協力、転進の指令部には有能な気象部隊の将校を同行させた。昭和18年12月のカルカッタに対する陸海共同の大規模な航空攻撃が行われた。進撃機は陸軍92機、海軍36機で本作戦の気象協力隊は発足以来大規模なもので、一丸となって気象関連作業の準備し、大成功を収めた。
これに反し、19年3月のレド油田攻撃は共に失敗した。
悪天で引き返し重爆戦隊長以下9機が全滅した。当時の気象判断は「天気は回復していないが、雲間に切れ目はあるかも」予報どおり、雲の隙間はあったが目標の発見はできなかった。攻撃を断念しえなかった戦隊長は援護機を帰し、裸になった戦隊は次々と敵機に襲われた。気象の立場から言えば攻撃日時を決めて悪天と知りながら攻撃の可否を判断するのは酷である。この場合の攻撃の失敗は気象協力隊の不良に帰するのには当たらない。
このように気象隊には血気盛んな将校からは批判的な目で見られたが、気象への認識不足のところもあったのではなかろうか。
科学部隊の気象隊に精神的なよりどころとなるところが必要であった。これらを察し、気象部長は「気象神社」の創建を思いたち、気象予報を具申したあとは、神の力をよりどころにしたのだろう。
(陸軍気象史参照)
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