気象神社物語(13)
陸軍気象部とは!
陸軍気象部正面玄関 この写真を見る
陸軍の気象が初めて生まれたのは昭和10年で、その後、航空勢力の進展、戦局の拡大で大組織を構築するように至ったが、敗戦と共にわずか10年で歴史を閉じた。
支那事変に始まって大東亜戦争に終わった動乱期に地上及び航空諸作戦の支援部隊として、陸軍の気象隊があった。それはおおむね地味な後方部隊として認識されていたようですが、陸軍気象部を頂点に大東亜全域に配置された10指に及ぶ野戦気象隊を含め、膨大な組織を形成していた。作戦地の最前線の測候班は常に地上の敵とにらみ合い、あるいは敵の空襲の危険にさらされて任務遂行につき進んだと、田中耕二元大本営航空参謀(元航空自衛隊幕僚副長)が「陸軍気象史」の序文で述べられている。
この陸軍気象部は戦局の重大化に伴い航空部隊の気象の認識、利用については間然する余地の多かったことは戦訓として注目された。
気象が作戦に重大な影響があり、時としてはその勝負を左右するものであることは古来からよく知られている。武田軍と上杉軍の川中島合戦において、朝霧の奇襲攻撃は気象を利用した戦例としてよく挙げられる。
大東亞戦争でも、ソ連参戦に遭遇した気象隊の役目は測候所からキー局に入るモールスと同じような暗号の気象通報傍受による解読と天気図を作るまでの作業を行った。
ビルマでは雨季明けの晴れた日を待って、航空作戦は気象隊の気象判断により、140機の大編成により、完全に晴れ上がったところを奇襲し、敵機の炎上撃破を38機の大戦果を収めたなど、さまざま作戦を行うための予報を行った。
なお、中川勇氏は終始陸軍気象関係に携わったので、陸軍気象組織の全容が過去の闇に没し去るのを惜しみ、また、多くの戦没気象関係軍人軍属のための鎮魂の念もだし難く、「陸軍気象史」を刊行した。この中には貴重な関係資料を収集しまとめられている。
陸軍気象部内にあった「気象神社」 「この写真を見る」
(気象神社創建担当者の渡会元陸軍気象部教官と後方が神社)
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